オスティア・アンティーカ 考古学地域 Ostia Antica 古代ローマ遺跡
伝統によれば紀元前620年、ローマで初めて水道橋を建設した王政ローマ第四代王アンクス・マルキウス/Anco Marzio((latino:Ancus Marcius),が、オスティアを建設したとされています。テヴェレ河口付近に広がる塩田確保が目的でした。ローマの外港として、軍港および商港として重要性をまし、一時期は国際都市として発展しました。紀元前4世紀〜紀元前5世紀が街の最盛期です。
イタリア・ローマ遺跡観光地と聞けばポンペイ、エルコラーノをイメージする方も多いでしょう。ローマ市内から25キロほど。公共交通でもアクセスできるオスティア・アンティーカ遺跡は意外と知られていません。市内から、地下鉄B線と近郊鉄道リド線を乗り継ぎ、小1時間で到着します。遺跡は、空の玄関口フィウミチーノ空港に隣接しています。ローマ到着間際に飛行機の窓からのぞき込むと、オスティア 遺跡が見えるかもしれません!
オスティアとは
オスティア/Ostiaとは、ローマの南西25キロほどのテヴェーレ河がティレニア海に注ぐ河口に近い港街の名称です。新市街や、ローマっ子の夏の海水浴場でにぎわう海岸、リド・ディ・オスティア/Lido di Ostiaと区別するために、遺跡が残る旧市街を[オスティア・アンティーカ]と呼びます。アンティーカ(アンティカ)/Anticaとは、古いを意味する形容詞。オスティア遺跡を指す時は、オスティア・アンティーカ・スカーヴィ/Scavi (発掘)まで含めると誤解されずに、遺跡までの道案内が得られます。日本語表記では、アンティカが使われるが、イタリア語では、アンティーカと伸ばして発音します。
コロナ禍でのオスティア 遺跡入場
2021年8月6日より入場時、グリーンパス(ワクチン接種証明書)表示が義務化されました。チケット売場手前で体温チェックがあり、熱がなければ、私の訪ねた時は、遺跡内マスクを外して観光できました。ただし、博物館は休館。遺跡内のハイライト箇所も閉鎖も多く、有名なネプチューン浴場のモザイクを一望できる高台が閉鎖されているのは残念でした。
オスティア 遺跡は、2006年以来の再訪です。当時はモザイク周辺に柵のない場所もあり、モザイクの上を自由に歩け、真上から写真撮影できました。
2000年前の昔、ローマ・オスティアは活気あふれる港街だった
主要な食糧小麦。木材、肉類、酢、織物や皮製品、金属、貴石、象牙、香水、パピルスなどが輸入され、がオスティア の倉庫に保管され、ローマへ運ばれた。公共広場、神殿、劇場が建設され、個人邸宅ドムスではまかないきれなくなった人口増加に伴い、共同住宅インスラが建設された。ポンペイ 遺跡と比較し、インスラが多く、市民生活が活発だったのは、オスティア の特徴。インスラの一階には、商店が並び、人々の生活が営まれた。世界に開かれたオスティアには多くの外国人が在留していたので、多彩な異国宗教のるつぼとなった。
古代オスティア の都市建設・二本の主軸道路<東西デクマヌス通り><南北カルドゥス通り>
三箇所の城門<マリーナ門><ローマ門><ラウレンティーナ門>
河口から海に向かう「マリーナ門」、ローマに直結するオスティエンセ街道に向かう「ローマ門」を結ぶ東西道路(約1.2km)が、デクマヌス・マクシムス/Decumanus maximus 。直交し、南北方向に伸びる道路は、カルドゥス・マクシムス/Cardus maximus。カルドゥス通りの南端にラウレンティーナ門が設けられた。共和政末期に、デクマヌスとカルドゥス通りの交差する広場には、フォーロ(公共広場)が造られた。
主軸道路は、ローマ植民地の都市計画に基づく街づくりで、その周辺に劇場や種々の機能を持った街区を配置しているので、広大な遺跡巡りには、街の外壁と、道路の全体像を捉えてから歩き出すとわかりやすい。
(史実よりビジュアル感覚先行型人間の私は、全体像把握が苦手、、。)
オスティア遺跡チケット売り場
チケット売り場は、ローマ門側。街の中心部公共広場(フォーロ)から、出入り口まで徒歩30分はかかる距離。閉館時間近くになると、「みなさん出口へ向けて歩き出しましょう」とアナウンスが響きます。
デクマヌス通り、カルドゥス通りに沿って、様々な建造物や、遺跡に隠れたモザイク床があります。案内表札の看板は、遺跡イメージを広げるのに役立ちます。
2021年入場料は大人12ユーロ。ネット予約は必要ありませんでしたが、現地での現金支払いは不可。オンラインチケットは、14ユーロでした。(並ぶ手間が省けるという点で高額なのか不明)
舗装道路の岩がゴツゴツとし、広大な遺跡を巡るには、丈夫な靴底、歩いやすいスニーカーや、アウトドア用サンダルが便利です。夏場は木陰が少ないので日傘と水、軽食も用意するのをお勧めします。遺跡奥に飲料の自動販売機がありましたが、カフェとブックショップ、博物館は閉館でした。
工夫が凝らされたレンガ石組みの壁面がおもしろい。
ネプチューンの浴場モザイク
オスティア・アンティーカ遺跡観光見どころ
2021年の再訪では、有名なネプチューン浴場を一望できる高台が閉鎖されていた。オスティア最大規模のモザイク遺跡なので残念だった。2006年の写真から、ネプチューン浴場全体図を回想しつつ、知識が足りなかった神話物語を調べ、モザイクの主題にあたってましょう。
古代ローマは、キリスト教公認前の世界。モザイク遺跡は、神話や、当時の庶民の暮らしなどが描かれています。設置場所は、公共施設や床を装飾する目的で作ら、壁面モザイク装飾は後の時代に登場します。ローマ市民に欠かせないローマ浴場には美しいモザイク床があることがしばしば。モザイクアートの材料は主に大理石で、底面1センチ程度の長方体に割り出した石を並べることで、絵柄を描き出しています。
ヒッポカムポス/半馬半魚の海馬(シーホース)ネプチューンの浴場モザイク Terme di Nettuno i mosaici 2006年撮影 岡田七歩
古代ローマ浴場は、<カルダリウム/caldarium高温浴場><テピダリウム/tepidarium 微温浴場><フリギダリウム/frigidarium 冷浴室>と主に3段階の温泉の部屋が中心となって、建設されています。るヤマザキマリ原作の映画「テルマエロマエ」では、ローマ風呂の発想に苦心する主人公の姿が描かれている。ローマ風呂文化は、ご存知の方も多いでしょう。モザイク床のあるお風呂でゆったり過ごしたいですね。
ネプチューンの浴場 Terme di Nettuno 2006年撮影 岡田七歩美
1日歩いても見きれないオスティア遺跡モザイクを巡る旅
オスティア遺跡の至る所に、モザイク断片が隠れている。探し出すのは一苦労。案内ガイドに頼るか、自分の足と幸運を信じてさまようか。遺跡内をくまなく歩くのは、1日では体力が追いつかないですね。暑い夏の日中は避け、歩きやすい季節にお散歩するくらいがちょうど良いのでは?再訪のたびに新たな発見があって楽しいものです。
後記:視覚優先で、史実と記憶に弱い筆者が、モザイク歴25年の間に見歩いたモザイク遺跡を自分の頭に治めるためにまとめたブログ記事です。モザイク初心者や、モザイクアートに興味をもった方が、よりモザイクアートの奥深さや広がりを感じていただけよう、ローマの歴史を絡ませながら、モザイク周辺の遺跡風景をご紹介しています。古代ローマの扉へ、モザイクの断片と、いにしえのローマの暮らしぶりがつながるよう、ローマ史全体像をざっくりまとめました。
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参考資料:「消えたローマの海港都市1〜オスティア 〜」小川煕 SPAZIO No.69
Wikipedia:Ostia(Citta’Antica)、オスティア・アンティカ
official web:Ostia Antica Atlas[Terme di Nettuno i mosaici]
Mosaico le tecniche Joan Crous -Diego Pizzol
google用語検索/翻訳
オスティアにおける共和政期の地盤面と帝政期の街路面の地形学的分析 オスティア・ローマ都市研究 III
堀 賀貴
ローマとその世界帝国5 新調古代美術館
写真撮影:岡田七歩美 2021/2006
ローマ史メモ
王政期(紀元前753~紀元前509)
共和政ローマ(紀元前509~紀元前27)
帝政ローマ
東西分裂後
西ローマ帝国(395年~476/480年)>ラヴェンナ
東ローマ帝国(395年~1453年)>コンスタンティノーポル
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