オスティア・アンティーカ Ostia Antica 古代ローマ港街
伝統によれば紀元前620年、ローマ第四代王アンクス・マルキウス/Anco Marzio((latino:Ancus Marcius),が、オスティアを建設したとされています。テヴェレ河口付近に広がる塩田確保が目的でした。
前4世紀頃カルタゴの脅威に対し軍港として整備されたオスティアは、ポエニ戦争終結後は、やがて商港として栄え、都市建設が着工されるのです。都市空間を囲む「ローマ門」、「マリーナ門」、「ラウレンティーナ門」、主軸道路のデクマヌス、カルドゥスが整備され、巨大な倉庫/horreaが物資保存のために、次々と建てられました。
商港・輸入品の貯蔵倉庫
前5世紀頃から人口増加が進むローマでは、食糧の小麦を、南イタリアのシチリアと、ギリシャ植民地から輸入していました。そのため、外港としてのオスティアの重要性は計り知れないものでした。ローマを起点とするオスティア街道もすでに建設されていたとはいえ、古代の物流では、水運が陸上よりはるかに便利でした。
同業組合広場/Piazzale delle Corporazioni
古代劇場の近くに、オスティア遺跡見学ハイライトの一つ、同業組合広場/Piazzale delle Corporazioniがあります。広場にある回廊は小さく区切られ、商人や船主の事務所として機能していました。
事務所床には、運送に使う船やいるか、アンフォラ、象などが描かれた白黒モザイクが歴然と残っています。取り扱う商品を描いたものです。
白黒の床モザイク遺跡は、広大なオスティア遺跡を巡り歩く私たちの目を楽しませてくれるのです。
イルカ 古代モザイクモチーフとしてひんぱんに描かれた 小麦容器だろうか
象は象そのものの輸入か象牙を扱う商社?
灯台とイルカ モザイクを作る様子を示したパネル 下地層>モルタル層>モザイク仕上げ 2006年撮影
人々の暮らし ドムス/domusとインスラ/insula
5万人が暮らすオスティアでは、上・中流階級の暮らす個人住宅ドムス/domusだけではスペースが間に合わず、市民の住宅として共同住宅インスラ/insula (アパート)も多く建てられました。インスラの一階には、タベルナ/taberna(商店)が入り、日常生活に必要な物が売られていた。
現代のバール、居酒屋のようなレストランもありました。
後記:視覚優先で、史実と記憶に弱い筆者が、モザイク歴25年の間に見歩いたモザイク遺跡を自分の頭に治めるためにまとめたブログ記事です。モザイク初心者や、モザイクアートに興味をもった方が、よりモザイクアートの奥深さや広がりを感じていただけよう、ローマの歴史を絡ませながらモザイク周辺の遺跡風景をご紹介しています。古代ローマの扉へ、モザイクの断片と、いにしえのローマの暮らしぶりがつながるよう、ローマ史全体像をざっくりまとめました。
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参考資料:「消えたローマの海港都市1〜オスティア 〜」小川煕 SPAZIO No.69
Wikipedia:Ostia(Citta’Antica)、オスティア・アンティカ
official web:Ostia Antica [Area archeologica di Ostia Antica][Terme delle Province]
web:Ostia Antica Atlas[Terme dei Cisiarii]
Mosaico le tecniche Joan Crous -Diego Pizzol
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