ラヴェンナへ導かれて【サン・ヴィターレ聖堂】

モザイクアートの今と歴史 モザイクを巡る旅

ーモザイクアート巡礼ー

プロローグ|なぜ、ここに導かれたのか

青い空に金色の星がまたたく聖堂。
 手を伸ばせば届くような小さな空間に、身体がそっと包みこまれる。
この場所で、私は生まれて初めて「モザイク」と出会った。
それ以来、
理由を言葉にできないまま、
今もなおこの街に導かれ続けています。

私は1995年から1999年にかけて、
北イタリアの小都市ラヴェンナでモザイクアートを学びました。
サマーコースで初めてモザイクに触れたときの喜び、
実際のテッセラに触れ、
モザイクを埋める行為そのものに心が震えた感覚は、
今も身体の奥に静かに残っています。


この街にのこるモザイク、
三百六十度を覆う膨大なモザイクの量に圧倒され、
その美をただ視覚的に受け取るだけで精一杯の時間が、長く続いていました。
これまでは、キリスト教の主題に踏み込む余裕もなく、
荘厳に輝くサン・ヴィターレ聖堂の空間的な印象を受け取ることに意識が向いていました。

また、
私の視線は、床もじっくりと見ていました。
ラヴェンナを訪れる多くの観光客が、
ビザンティンのガラスモザイク壁画を鑑賞するためにこの地を訪れるのに対し、
私は歩行とともに、
身体に近い位置で展開する床のモザイクも目を向けてきました。
教会内部のモザイクの中でも、写真に収めやすく、複製原画のモチーフとしても親しみやすい「床」。

床のモザイクは、
素材の手触りや構成を具体的に捉えやすく、
制作の参照としても向き合いやすい対象です。

切ること、置くこと、組み立てること。
その行為に直結する視線が、床をよく見ると立ち上がってくるのです。

サン・ヴィターレ聖堂 床のモザイク| 2024


一方で、荘厳に輝くガラスモザイクは、私の中では特別な位置を占めていました。
それは「作る」対象というよりも、
大きなモザイクの懐に包み込まれるような存在であり、
どこか神のような距離を保つ対象でした。その視線を、床から上方へと意識的に引き上げる。
今回は、この聖堂を「一つの建築」として、改めて歩き直してみたいと思いました。

サン・ヴィターレ聖堂 正面アプス|2024

サン・ヴィターレ聖堂という建築

サン・ヴィターレ聖堂
La basilica di San Vitale

床から視線を上方へと移すと、
壁面のモザイクは、
一枚一枚の「画面」としては立ち現れてこない。

それらは独立した絵ではなく、
アーチや柱、開口部と結びつきながら、
空間そのものを形づくる要素として
存在しているのに気づかされるのです。

サン・ヴィターレ聖堂 のモザイクは、
「見る対象」である以前に、
視線の方向や身体の位置を導くための
構造として機能しています。

それは、
八角堂の聖堂空間に収められた美の、
ひとつの必然でしょうか?

画面は壁に貼り付けられているのではなく、
建築のリズムと一体化しながら、
視線を上へ、そして中心へと
押し上げていきます。

このとき初めて、
モザイクは装飾でも絵画でもなく、
建築の一部として設計された
「空間の言語」であることを
おぼろげに認識していくのです。

サン・ヴィターレ聖堂外観 |2024

② 建てられた時代と政治的背景

外観の素朴さと内部の圧倒的な落差

サン・ヴィターレ聖堂は、
ラヴェンナを訪れたら必ず足を運ぶ聖堂です。

八角堂の集中式プランを持つこの聖堂は、
外から見ると、装飾を抑えた素朴な煉瓦造りの建物に見えます。

ところが一歩中に足を踏み入れると、
やわらかな光に包まれたモザイクがきらめく、
眩いばかりの空間に出逢います。

北イタリアのラヴェンナは、
古代にはアドリア海に流れ込むラグーナ(潟)に守られた、
自然の要塞ともいえる港湾都市でした。
五~六世には土砂の堆積によって港の機能は次第に衰えたものの、
軍港としてのクラッシス地区と、
商業港としてのラヴェンナの町は、
なお重要な役割を保っていたと伝えられています。

六世紀・ビザンティン期。
ラヴェンナは総督府の都として、
東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の
イタリア支配を担う拠点となりました。

402年に西ローマ帝国最後の都となり、
476年にはその終焉を見届け、
その後は東ゴート王国の都となる――

そうした幾重にも重なる歴史の流れの中で、
ラヴェンナのモザイクは、
時代と政治の影響を受けながら、
作られてきました。

では、なぜこの場所に、
これほどの規模と表現を持つ聖堂が
必要だったのでしょうか。

サン・ヴィターレ聖堂 皇帝ユスティニアヌスのモザイク|2024

皇帝モザイク

ー権力と信仰ー

サン・ヴィターレ聖堂 の内部空間で、
とりわけ強い存在感を放っているのが、
皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドラのモザイクです。

これらのモザイクは、
単なる肖像表現ではなく、
六世紀という時代における
権力と信仰の関係を、
視覚的に示す装置として配置されています。

なぜ、その表現は
外ではなく、
聖堂の「内側」に置かれたのでしょうか。

聖堂の外観を飾るのではなく、
人々が足を踏み入れる、
聖堂の「内側」にこそ、
帝国の秩序と正統性は示されていました。

この時代、
信仰は個人の内面にとどまるものではなく、
政治と深く結びつきながら、
空間と視覚を通して、
人々のあいだに
共有されていたのです。

なぜ、この場所に。
なぜ、この規模で。
なぜ、これほどまでに力を注いで
「内側」がつくられたのか。

皇帝モザイクは、
その問いに向けて、
置かれているように感じられます。

皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドラのモザイクは、
聖堂の中でも、慎重に選ばれた場所に置かれています。

その配置から見えてくるものを、
少し立ち止まりながら、
たどってみたいと思います。

→ ユスティニアヌスとテオドラが置かれた場所(執筆中2026/2/2)

ページの内容は随時見直しています

参考文献:【地中海都市紀行】名取四郎
ビザンツ 驚くべき中世帝国】ジュディス・ヘリン 井上浩一監訳
初期キリスト教美術・ビザンティン美術】ジョン・ラウデン著・益田朋幸訳
イタリア12小都市物語】 小川煕

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